自分の中のできない自分を癒す『未熟』を抱きしめること。
目次
未熟を抱きしめられる自分になることで力を抜けたよという話。
最近過ごす中ですごく余裕を持てるようになったなぁと思えることの一つに
『未熟』に対するイメージが変わったことがあります。
基本的に僕は人の前ではできている風を装うし、
おおよその関係性は誰かをサポートする側に回ることが多いです。
というのも、僕の生きている世界は『やるか、やれないか』という世界観(やらないということがない)で、
人に貢献できる自分であるということが当たり前の世界に生きています。
そのため、誰かに貢献しようとするシチュエーションや
何か課題が来たときに
僕にとっては『やる』のが前提で、
限界がきたときに初めて『やれない』となる構造をもっています。
(今、思うとなかなか強烈)
なので、何かをできないということは、
ものすごく僕にとってストレスだったこともあって、
誰かに助けを求めるとかはあり得なかったし、
意見を言われることや、チャレンジをした時に期待する成果が得られなかった時に
落ち込んだりといったことがよくありました。
特に人から何かを指摘されて、
自分ができていないところを見つめることには抵抗があって、
なるべく指摘をされないように振る舞っていたなぁと感じています。
未熟に対するイメージが変化したことで限界を見つめることが安心感をもてるようになった!
そこで冒頭に書いた『未熟』の話につながります。
未熟に対して皆さんはどんなイメージがありますか?
僕にとっての未熟は無力感を突きつけられる受け入れがたいものでした。
『敢えて選択した未熟を道具にして
変化を楽しめることは
永遠不変のすごすぎる
無限の可能性に対する確信があるからなのです』
これは僕の恩師が書いた未熟に関する言葉。
何かあった時、この言葉のイメージするところに立ち返って、
勇気をもらったりもしていたのですが、
この言葉が自分の実感をもってわかってきました。
そのきっかけは、日常の中でいろいろな場面で、
自分が無力感を感じていることを詳細につかむことができたから。
自分が選択している未熟のイメージがわかったとき、
その選択したイメージが錯覚であることがわかって、
本来の形に戻ることができる。
自分の心の動きを繊細につかむことができたからこそ、
気づけば気づくほど、安心感から始まることができるということを蓄積しています。
幸いに僕はチームで活動をしていることもあり、
チームプレーをする中で、未熟を愛するということを学ばせてもらいました。
できる自分でいないといけないということが当たり前の僕と、
できない自分ということが当たり前の彼女。
だからこそ、彼女はチームプレーをすることを自然に選択できる人。
お互いの前提のまま、やりとりすることは時にとんでもない摩擦を生み出したりもするのですが、
それのお蔭で僕がいかに自分一人で無理して頑張る世界を選択してきたかがわかり、
無意識の選択を解除することを手伝ってもらうことができました。
お陰様でそれ以外の関係性でも安心感を感じることが増え、
関係性の中で力を抜くことを覚えさせてもらっています。
頑張って人を助けるチームプレーは得意ですが笑
フラットなチームプレーをすることは僕の中に生まれたばかりで、
まだよちよち歩きです。
力を抜いて限界を見つめる
そうなってくると、自分の中の限界を見つめることの意味づけが変わりました。
絶対的な安心感の中で限界を見つめられることはギフトでもあります。
まだこのイメージつかみ始めたばかりなので、これをいきなり見つめようとすると力が入ってしまうときもありますが、
徐々に新しいイメージから、
自分だったり、自分とする範囲(チーム)を見つめる訓練をしています。
足りない存在ではなく、
絶対的に満たされている境地だからこそ、
安心して未熟を楽しむことができる。
そんな生き方を蓄積したいです。
本日もお読みいただきありがとうございました。
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