つい、頑張ってしまう自分へ 罪悪感エンジンからの脱却

つい、頑張ってしまう自分へ 罪悪感エンジンからの脱却

目次

つい、頑張ってしまう自分

今月も終わりに向かうなかでどんな1ヶ月だったろう?

と改めて振り返ってみています。

先月に続き、今月も自らの無意識に向き合いながらの1ヶ月でしたが、

何がキーワードだったかというと、

『チームプレー』です。

自分でやるのが当たり前。そんな生き方をずっとしてきました。

誰にも頼らず、頼っても、見せられる範囲だったり、

頼ることで何かしらを計算していたり、

いつもそんなことをしていたと思います。

そんな自分にも、日常のやり取り活動のなかで

突っ込んでくれる人ができ、ちょっとしたときに、すっとメスが入るようになりました。

ついに『自分で頑張るしかない』そう思っていた世界にヒビが入り始めています。

外から見える自分と中の自分のギャップ

最近、日常のなかで人に自分の内面の心の動きをアウトプットするようになってから、

『外で見えている姿と中で感じていることのギャップに驚く。』

と言われることがありました。

この記事を読んでくださるかたは多少は僕を知っていてくれたりすると思うので

もしかすると人前でも堂々としゃべったり、

物怖じしない『堀江直樹』

意外に思われるかわかりませんが、外からみる僕はひょうひょうとしていたりするみたいです。

プロフィールにもありますが、世間的には講師としての活動もそこそこやってきましたので、

一般的にはすごい、すごそう、なふりをするのが得意なんです。

だけど、その裏には強烈な罪悪感があることがわかって、

自分がやらないといけない

結果や達成をしないと価値がない

価値を提供できない自分という存在は申し訳ない。

という罪悪感が深くあることに気がつきました。

この罪悪感から対になるように生まれてくるものが、

ものすごく頑張ろうと期待に応えようとする心の動き。

あまりにも早すぎて

今まで自分が自覚していた以上に多くのところで出ていたことがよくわかりました。

個人で生きれば問題は起きない。しかし、その先の結論は孤独

今までのように個人プレーだけをやっていたときは、

現象的には何も問題が無かったんです。

できるわたしを演じ、達成する自分がいる。

ただこれをやっていればよいだけでした。

しかし、チームプレーや仲間、関わった人たちを意識してみたときに、

常に『自分がやったこと』『できたこと』にフォーカスがいく構造だけだと

問題が起きてくることを理解していきました。

何かをやっている最中に『自分』にだけしか

フォーカスがいかない状態では

回りの人がどんな風に心が動き、

感じているのかに眼がいきません。

特に僕の場合は、がんばる自分が当たり前すぎて、

常に目の前の人の期待に応えようとしすぎて、

優先するべき大事な期待に応えることを損なってしまうようなことをしたり、

条件反射をしている自分がいました。

そして、そういった自分本意だけで動いていったときに、行き着く先はどうなるのかをシミュレーションしてみたところ、

『自分がやる』が強くなりすぎると

周りのチームプレーを感じられにくくなったり、

それこそ、周りの人のやることもなくなってしまったり、

周りとのイメージの格差が生まれていきます。

この結論は、分離からくる孤独だったんです。

無意識に刻み込まれた関係性のもちかた。

無意識に刻み込まれている『記憶』『生命の本能』を土台にしたわたしのイメージ。関係性のもちかた。

罪悪感をもとに、一生懸命頑張って、何かしらを産み出そうとするのがわたしの無意識のエンジン。

そこには沢山の成功体験を産み出し、

放っておくと日常ではなかなか問題や限界にフォーカスされることは少ないです。

しかし、この自らのエンジンが動く範囲で作る関係性は

価値提供する『自分像』から自由になれず、周りとの差をつくっていく関係性の持ち方です。

多少は尊敬されたりするかもしれませんが

格差を産み続ければ、自然と仲間が離れていってしまったとなることもあるかもしれません。

これでは、どうみても持続的ではありません。

何か、条件が変わったとききに関係性が切れてしまう、

そんな脆さを感じました。

つい、自分を守っちゃうんだよね。でも、それを越えた世界はめっちゃ楽だよ。

特に自分の弱い部分を指摘されたり、

自ら足りていないことに気づいてしまったときに

ぐわわわーっと中から罪悪感が立ち上がります。

そんな罪悪感から外に出た世界。

自らが立ち上げている世界(自らの宇宙)に責任を100%もつこと

その目をもって、自らが感ている『罪悪感』の正体をみつめたときに

日本の姿が見え、

また、その罪悪感を感じながら努力し変化する生き方自体に

美徳を感じていたりとか、

そこを汲み取ってくれる存在を期待していたりとか、

美味しいアメが隠れていることがよくわかりました。

罪悪感の実体が見えて変化した反省のイメージ

『反省』という行為も

目的の達成のためにやるのか、

贖罪(罪や失態をつぐなう)ためにやるのかは大きな違いです。

ミッションリンクのメンバーの赤尾さんは前者のタイプ。

僕は行動レベルではかなり前向きに変化を産み出しますが、

その第一ボタンは罪悪感に火をつけてから

頑張ろうとするので、変化に質量が伴うんですね。

そして、その火は半端じゃない熱量を産み出すので、

ものすごい行動スピードを産み出します。

結果、さらに周りや仲間とのイメージの格差を生んでいく、、、周りがついていけなくなる、、、

僕は気づかないうちに後者の自分を選択し、

チームを組んでも孤独になってしまったり、

そもそも期待に応えられない罪悪感を感じたくないために

人とのチームプレーをすること避けていたことがよくわかりました。

これは、僕一人では気がつけなかったことです。

チームでやるからこそお互いの違いが出会って

その、違いを理解したときに見えてくる世界。

自分の世界の設計図が見え、

0にほどくことができ、

新しい設計図のゲームを立ち上げ、∞楽しむということ。

今、僕が立ち上げている世界はシンプルにチームプレーを楽しむ世界。

新しい世界との出会いにワクワクしています。

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