「目で見る」という認識方式の限界。不安の根源とは何か?

「目で見る」という認識方式の限界。不安の根源とは何か?

お久しぶり~(約2年ぶり)に少しロングなリーダーシップの研修に参加しています。

今年は関わる方へのサポートやサービスのクオリティをもっと高め、

自分自身も実践者として研ぎ澄ませたい想いが強くあり参加しています。

定期的な内的なメンテナンスは大事ですね。

朝9時~夜9時までの長丁場でしたが、疲れも感じない幸せな1日でした。

上質なインプットは情熱とアウトプットする意欲を駆り立ててくれます。

本日、1日を通しての気づきが上記のタイトル。

今回は本質的なお話になりますが、誰もが避けては通れない話なのでとっても大事な内容です。

少し難しい話かもしれませんが、少しでも伝わってくれたら嬉しいです。

ぜひ、最後までお付き合いいただければと思います。

「目で見ている」という感覚の持つ限界

皆さんの感覚として、今、自分が「目で世界を見ている。」という感覚はお持ちでしょうか?

実はこの感覚、非常に危うい感覚になっています。

これは「目で見る」のほかにも「足で歩く」といったこともすべて同じ構造なのですが、

何故、この主語と述語の感覚が危ういのかというと、

結論から言えば、世界の実態を正確に認識できていないからです。

例えば、「足で歩く」というのは足自体が原動力を持ち、独立した構造で動かないといけません。

しかし足は心臓からの血液の運搬が無いと動くことができません。

では心臓は血液の酸素がないと動くことができません。

酸素は植物がないと作られません。

植物は太陽がないと光合成ができないですし、

太陽の光はダークエネルギー・ダーク物質が無いと作られません。

ダークエネルギー・ダーク物質はM理論で提唱されている真空エネルギーの振動が無いと生まれません。

この真空エネルギーは・・・

というように、「足で歩く」という背景には

すべてのチームプレーやバックアップがあって成り立っているのです。

この背景にあるつながりを無視して、切り取った一部分を主語 と思うことは、

様々な応援を無視することにもなり、

本質的に存在不安を選択することにつながります。

何故、存在不安になってしまうのでしょうか?

実は私たちが当たり前に見ている「存在」とは、

強烈な動きが圧縮された一瞬の結果体だからです。

物理学の最先端理論であるM理論では、

私たちの世界は膜の振動(動き)によって成り立つ、エネルギーの振動の結果体です。

量子力学もそう。ミクロの世界では波動から粒子が生まれたり消えたりする様子が観察されています。

私たちが当たり前に見ている存在とは、

熱いコンロの上に雪の結晶1つが誕生したような、

一瞬でほどけて消えてしまう、刹那の産物なのです。

「存在がある」ことを思考の大前提とすることは不安と喪失感・虚無感を伴う

つまり、「存在」とは生まれては消えゆくもの。

必ず、壊れるものなのです。

その存在を思考の大前提とすることは、

常に消えゆく不安や喪失感、虚無感を伴います。

何かを得ても深いところで満たされないことは、こういった存在の性質が関わってくるのです。

先ほどの「足で歩く」という自然な認識は、

存在があるのが当たり前であるという認識方式です。

存在があるというのは主語(S)と述語(V)がある状態。

ある存在(S)が動く(V)という構造です。

私たちが自然に認識している認識構造である

「目で見る」という感覚は、存在の持つ本質的な性質から自然に不安が生まれる。

この存在不安をどのように解決していくのか?

私達が当たり前に持つ認識の限界を深めながら、そこから先の未来を一緒に考えたいと思っています。

本日もお読みいただきありがとうございました。

perspective496@gmail.com