「自分」だけで頑張る時代は終わり。「協力・共生」の時代へ。
- 2018.04.13
- 時代創り
「自分で頑張るしかない。」
「自分がやるしかない。」
つい、日常でそんな風に歯を食いしばってしまう人へ
長男・長女特性のある方はそんな考えが日常でも浮かびやすかったりします。
職場の中でも業務を抱えてしまったり、
一生懸命がんばっているうちに気づかないうちにパンパンになっている。
そんなこともありがちです。
なかには、一見すると問題ないぐらい、バリバリにこなしているけど、
気づかないうちに自分でやることが当たり前になっていて、
どこからどこまでのプロセスを共有したらよいのかが難しい。
そうするとコピーが生まれない。同じ視点の問題意識を共有できる仲間がいない。
そんな経営者やリーダーの悩みなんかもあるかもしれません。
つい、「自分」で頑張ってしまうこと。
こういった課題の背景には「チームプレー」に対するイメージが潜んでいます。
皆さんは日常で
・自分がどんなチームプレーをしているのか?
・何とチームプレーをしているのか?
・チームプレーに対してどんなイメージをもっているか?
ということに関心がありますか?
お恥ずかしい話、僕はこの方、チームプレーに対して「我慢をする」イメージしかありませんでした。
病院勤めをやめて自営業の道にいったのも
自分のやりたいようにやってみたかったから。一言でいうならわがままです。
自分がやりたいことをやれば人や周りに迷惑がかかる。
今、思うと配慮がなかったなーと反省ですが、
病院時代にイケイケだったときは
空間に手をかざして患者さんを治療したり(全部じゃないですよ笑)、
やりたい放題やっていました。
まぁ、そこでも上司にもたくさん言われたわけですが(当然)
社会のなかで調和をする=我慢をする
のイメージが常にありました。
今は、イメージの転換により、
全てがチームプレーの結果体であり、
チームプレーの本質は「循環」にある。
と、確信をしています。
例えば、体の臓器も一個でも欠ければ、体の機能は破綻します。
地球が自転をしなくなったら、
太陽が自ら熱を発しなくなったら、
植物が呼吸をしなくなったら、
人間は生きることができません。
私たちの生活も様々な製品や商品に囲まれて生きています。
物質のレベルまで視点を細かくすれば、様々な原子がお互いを引き合って形を維持することで、
物質は成り立っています。
自然の要素も人間社会で生きることも、人間という個体も、物質のレベルで見てもチームプレーで成り立っていると言い換えることができます。
患者さんとの治療という行為もチームプレーの結果体です。
「治療者:患者」
という役割を演じながら、お互いの役割を全うし合う、ポジションゲームをしていると言えます。
今の時代だと、ぱっとみたときに、
周りとの関係のなかで、連携・循環する能力よりも、
個人としていかに能力をつけるか?
個人としてのメッセージ発信をどのようにするのか?
というところにフォーカスがいきます。
様々な情報は比較を生み、多様な情報と自分を比較します。
「こんな生活をしていることが理想的らしいぞ。」
「なんかみんな充実している生活を送っているなぁ」
一見、自分よりも優れて見えたりする個人の姿は
容赦なく今までの自分を傷つけ、
時にはぬか喜びをしていた自分に悔しさも感じたり、
言いようのない焦りを感じたり、
なんてこともあると思います。
そうなってくると、余計にこの「自分」が頑張らなくてはならない。
そんな風に意識の焦点が向かいやすいんですよね。
では、ちょっと引いてみてみましょう。
これらのことを考える時、
視点を少し変えてみたときに問題の原因と出会うことができます。
今、目の前に見えている自分の世界のなかで、
どうして私たちが、「自分」のことで忙しくなってしまうのか。
その理由はなんでしょうか?
様々な要素を指摘できますが、
今回は「時代」という背景から見てみたいと思います。
私たちの時代はどのような時代でしょうか?
原始の時代をさかのぼれば、
人間が小さい家族単位やちょっとした群れで過ごしてレベルから、
だんだんと国家を形成するようになりました。
そして、王というポジションが生まれ、その王制を打倒するために
民主主義が叫ばれ、近代革命に至っています。
近代革命以降は情報化社会の流れには来ていますが、
今の時代は個人主義、資本主義、民主主義を土台にした社会として成立をしています。
王を打倒し、人間個人の権利と尊厳を主張した市民革命以後、
個人に消費を活性化させ、より経済的な発展を模索し続けてきたのが資本主義です。
簡単にいうと個人に消費させるために、
一人一部屋、一人に一台のパソコン。
日本という単位で見れば、家族での共有が当たり前だった時代から
核家族化、個人がそれぞれに生きることが当たり前の社会に変化をしてきていると言えます。
つまり、いやがおうにも「個人」にフォーカスがいく時代の中にいるということです。
王制の時代には「個人」は王の所有物であり、
どう生きるかの選択肢もありませんでした。
そんなときに、自分は将来何をやったらいいんだろう?
とかそんな悩みは出て来にくいです。(もちろんそんな悩みをもった人もいると思います)
だって、私たちも高校を出て、大学を出て、就職して、
とか当たり前に思いますよね?
この当たり前の感覚も時代が作っている感覚です。
つまり、「個人」という概念は幻想。。
作られた概念の中に気づかないうちにはまり、そこから自由になれなくなってしまう、
誠に不可思議な特性を持つのが人間なんです。
「個人」という枠。
これは人生を楽しむための素晴らしい道具です。
でも、気づかないうちにそこにはまってしまうんです。
ゲームでキャラクターを選ぶときに
キャラクターの性能が絶望的だ、って死にそうなぐらいに悩むことはないですよね。
ゲームの特性に合わせて、
キャラクターの能力をどのように発揮するかを楽しんだり、考えたりすることができるはずです。
でも、それを楽しむことができるのは、
ゲームから離れることができるし、
ゲームに没入することもできるから。
私たちの時代全体を見渡したとき、
お互いがお互いのエゴを譲れなかったり、無理に我慢をしたり、
その結果に協力関係が組めなくて、たくさんの無駄が生まれていることをご存知ですか。
家庭のレベル、職場のレベル、企業のレベル、地域のレベル、国家のレベル。
実はこの「個人にフォーカスをし続ける社会のモデル」では限界がきているんですよね。
格差の問題は最たる例です。
あなたが「つい、自分で頑張ってしまう私」から自由になるためには
「自分」というゲームから完璧に外にでなくてはいけません。
その変化は実は今の時代の限界ともつながります。
そんな風に物事を捉えたときに、
ちょっとチームプレーのイメージも変わるかもしれません。
自分を手放して、
相手のイメージを受け取ったり、
自分の中にあるものを相手に出したり、
感情の共有、イメージの共有、アイディアの共有、
抵抗値が0の循環がどんどん起こせる個人。その個人が集まって、地域や社会のモデルを作る。
あなたの変化が時代の変化につながります。
本日もお読みいただきありがとうございました。
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