SNSがもたらす分断の背景にある人間の本質的課題 神田昌典さんの論考を読んで

SNSがもたらす分断の背景にある人間の本質的課題 神田昌典さんの論考を読んで

今、仲間たちと新しいSNSの形を創りたいと思って、インタビュー活動をしている。

今日のフェイスブックの投稿で、マーケッターの神田昌典さんが日経MJで

注目浴びた「クラブハウス」ー SNS活況 終焉のはじまり

facebook 神田昌典氏の投稿より引用 https://www.facebook.com/KandaandFriends
神田昌典さんフェイスブック記事より引用 日経MJに掲載

というテーマで記事を書かれたそうです。

ぜひ、フェイスブックの神田昌典さん、日経MJにて興味ある方は記事を読んでほしいのですが、

クラブハウスの登場をSNSの活況時代の終焉の始まりであるという論点で書かれています。

SNSによるプラス面、マイナス面の効果があれど、

クラブハウスの登場に象徴されることは、

SNSの持つマイナス面が強調されるようになってきたと書かれています。

そのマイナス面とは「分断」。

ルームでのやり取りなど、サービスの利用の中で生まれる強烈な相対比較により、

みじめと思う人が増え、より攻撃的になったり、劣等感を感じる人が増えたり、

解析がネガティブな方向に暴走してしまうことや、

それに伴うフェイクニュースなどの悪意ある情報が社会に増えたりといった、

社会的に分断が生まれていくことでの問題の深刻化について書かれていました。

これを読んで私が感じたことは

大きく2つあります。

目次

神田昌典さんの視点の面白さ

まず1つ目の感じたこと。

それは神田さんの論考の視点についてです。

普通、クラブハウスのことを考えるとしたら、

これだけニュースで取り上げられたり、流行っている(ように見えるw)なかで、

多くの人は自分のビジネスや活動にどう使えるのか?という視点での考えを巡らせることが多いのではないでしょうか。

神田さんの視点はある意味、

社会全体がどのようになっていくかに想いを馳せているということ。

当然、神田さんの立ち位置が目先に一喜一憂しなくていいぐらい社会的に安定しているとかもあるかもしれませんし、

このポジション取り自体が神田さんの信頼性を高めることに繋がるのかもしれませんが、

人が目先に忙しくなる中で、大きな展望をもっていることに面白いな~と感じています。

SNSと人間の主客転倒に代表される様々な問題

もう一つは人間の内的な葛藤、分断が起こる根本原因がどこにあるのかということ。

ここからは私の考えですが、

この課題はクラブハウスのルールもそうですが、

今後生まれてくるSNSツールや様々な情報のなかで人が相対比較したり、

考えを統制できない根本原因について明らかにしていく必要があると感じています。

社会全体に鬱が増え、相対比較が生まれてしまう理由。

日々の生活がSNS映えを狙って行動する。

いつの間にか、道具のはずのSNSが主人になってしまっている。

これってよくよく考えるととても滑稽なことですが、そうなっていることに自ら気づくことは難しいです。

実は私たちが何よりも処方すべきことは、このSNSと人間の主客転倒に代表されるような

人間のすべての出会いの限界に対してであると考えています。

何故、こういった本質的な介入が必要なのかというと、

今後、5G時代になり、ますます動画時代、

よりタイムラグなく個人個人が情報発信していくことが当たり前の時代になると思います。

そうなったときに人は、今よりも超膨大な情報と日々、毎瞬、出会っていくのです。

2030年には3日で知識の総量が2倍になっていくと言われています。

そんな情報の洪水に飲まれるなかで、多くの人が出会うことは、より活発で創造的な未来でしょうか。

それとも何が正しい情報なのかわからず、劣等感や、相対比較に苛まれ、

だけど、何かをやらなければ自分の存在意義が揺らぐ、そんな不安のなかで人が発信する社会でしょうか。

SNSの発達で表面化される人間の出会いの本質的限界とは?

人間が動物と比べて画期的に違うことは目線を共有できることにあると言われています。

実は私たちは見ている画面の結果をある程度、共有できます。

これは動物たちとは違い、模倣を可能にし、それによって協力関係の進化を生んできました。

身体の中にあるDNAだけでなく、

書物や法律など、体の外にも文化というDNAを残すことで、

様々な技能や協力関係を継承し、進化し続けてきました。

その進化のプロセスでSNSなどのテクノロジーも発達してきたわけですが、

私たちは依然として戦争を手放すことも、殺人や自殺を手放すこともできずにいます

そのように考えれば、実は私たちは本質的に課題を持っているわけです。

実は私たちの文化DNAは不完全な文化DNAであると言うことができます

この不完全な文化DNAがどんな限界を持つかをシンプルに言うと、「出発点が皆バラバラ」ということです。

人は個体ごとで見れば、時代も違う、家族構成、教育もすべてが違います。

今それを見ている立ち位置も違いますし、誰一人として同じ人はいないのです。

それはすなわり、心の観点で言えば、誰一人として同じ空間にはいないということ。

人間は一人では生きていけませんので、この出発点の違いをまとめるために、

神や王という概念、近代化をしてからはお金や法律といった概念で協力関係を作ってきました。

しかし、実は出発点がバラバラであることそのものは解決ができていないのです。

SNSの登場に代表される超情報化社会への突入は、人の出会いの限界を露呈すると感じています。

出発がバラバラということは、自分にとって世界(社会・家庭などなどすべて)との出会いは、

自分のすべてを無条件受け入れてもらえる安心できる場というよりは、

はじかれるリスクを可能性を持つ場となりえます。

脳は過去の経験したデータベースを通して世界を解析します。

出会いの本質的な不安は、出会いに対してネガティブなフィードバックを感じさせたり、

そのネガティブな状況を回避するために一生懸命にポジティブに頑張るという力が働きます。

ネガティブな人はよりネガティブに。自分を守ろうと勝ち上がろうとする人はより勝ち上がろうと。

これにより社会はより分断の方向に進んで行くと感じます。

人は基本的に脳を使って現象を解析しますので、

脳の観点の中から自由になることができません。

脳の観点を自由に解除できる「共同出発点」を持つこと、

その共同出発点から世界との出会いをデザインする知恵が、

超情報化社会に人間が心スッキリで協力関係を作っていく鍵だと感じています。

今回はここまで。

本日もお読み頂きありがとうございました。

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