教育は、いつまで「労働力」をつくり続けるのか──2026年2月20日高市所信表明演説と、サム・アルトマンの警告から考える

教育は、いつまで「労働力」をつくり続けるのか──2026年2月20日高市所信表明演説と、サム・アルトマンの警告から考える

目次

2026年2月20日高市所信表明演説とサム・アルトマンのスピーチを対比して

AIが人間の知能と労働を置き換える時代に

日本の教育は、いまだに「労働力をどう鍛えるか」という発想のままでいいのか。

サム・アルトマンのAGI(汎用人工知能)発言と

高市総理の所信表明演説を並べて読んだとき

私にはこの“文明のズレ”がどうしても見過ごせなかった。

2026年2月20日、高市早苗総理による所信表明演説が行われた。

経済、財政、技術、外交、安全保障と、非常に網羅的で戦略的な内容だったと思う。

現実の政治として見れば、かなり緻密に組み立てられた演説だったとも言える。

ただ、前回の記事(10月24日に行われた所信表明演説に対する記事)でも書いたように

私はこの演説を「教育」という視点から見たとき、どうしても強い違和感を覚えてしまう。

その違和感を、今回は少し別の角度から掘り下げてみたい。

きっかけは、演説の前日(2月19日)にインドで行われたAIサミットで、OpenAIのサム・アルトマンが語った内容だ。

彼はそこで

「初期的な超知能(AGI/Superintelligence)は、数年以内に到来する可能性がある」

と語った。

さらに、人間はGPUのように長時間働き続けることはできない、という趣旨の発言もしている。

これは単なる技術予測ではない。

人間の労働そのものが、構造的に機械に置き換わりうる段階に入る、という宣言に近い。

つまり、

人間はもはや「労働力」という観点では、AIに太刀打ちできなくなる。

という未来像が、かなり現実的なスケールで語られ始めている、ということだ。

画像:首相官邸より引用

高市演説が前提としている「人間=労働力」という発想

一方で、高市総理の所信表明演説における教育・人材育成の位置づけを見ると、

そこに一貫して流れている前提はかなり明確だ。

それは、

「人間は労働力であり、

教育とはその労働力の競争力と生産性を高めるための装置である」

という人間観だ。

公教育の強化、大学改革、科学技術立国、人材育成、産業競争力の強化。

これらはすべて、「経済成長を支える人的資本をどう最適化するか」という文脈の中で語られている。

高齢者も、女性も、若者も、基本的には

「どうすれば社会の中で機能し続ける労働力として活躍できるか」

という軸で設計されているように見える。

これは、戦後日本だけでなく、近代産業社会が長く採用してきた、ある意味で“成功してきたモデル”でもある。

人間は働く。

働くことで価値を生み、

その価値が社会と経済を支える。

この前提のもとで、教育は「より良い労働力をつくるための仕組み」として設計されてきた。

しかし、その前提は崩れ始めている

問題は、サム・アルトマンの発言が象徴しているように

その前提そのものが崩れ始めているという点にある。

AGI(汎用人工知能)が本格的に登場すれば、

・プログラミング

・研究開発

・経営判断

・設計

・分析

・企画

・マネジメント

といった、これまで「高度な知的労働」だとされてきた領域ですら、機械が担える可能性が現実味を帯びてくる。

昨今の目覚ましい中国のロボット技術の発展を見れば、

そうした超知能が“肉体”を持つ日も、そう遠くないだろう。

つまり、

人間は「労働力としての価値」では構造的に機械に勝てなくなる

という局面に、文明そのものが入ろうとしている。

にもかかわらず、国家の教育設計や人材政策が、依然として

「どうすれば人間を、より競争力のある労働力にできるか」

という問いのまま進んでいるとしたら、それはかなり危ういズレを孕んでいる。

それは、

次の文明のハードウェアを、古い文明のOSのまま運用しようとしているようなものだからだ。

画像:以下動画より引用

本当のリスクは「失業」ではなく「意味の崩壊」

多くの議論は、「仕事がなくなる」「雇用が減る」という話に向かいがちだ。

しかし、もっと深刻なのはそこではないと私は思う。

本当のリスクは、

人間の価値を「労働」「生産性」「市場価値」に結びつけたまま、

その土台だけがAIによって崩壊することにある。

この構造が残ったまま、労働の意味だけが失われるとどうなるか。

・働けない人=価値がない、という無意識の前提が残る

・高齢者も、若者も、「役に立たない存在」として自己否定に追い込まれる

・しかし社会は、「労働以外の価値基準」を用意していない

結果として生まれるのは、経済危機というより、

意味の危機、尊厳の危機だろう。

人間の意味・価値の喪失。

そしてAIによってそれぞれの世界観が個別化していく中で、

秩序や協力関係をどう結び直すのか、という課題に私たちは直面する。

教育は「労働力」を育て続けていいのか

ここで、もう一度問い直したい。

教育は、何のためにあるのか?

もしAGIの時代において、人間が労働力としては構造的に不利になるのだとしたら、

それでもなお「労働力を鍛えること」を教育の中心目的に据え続けるのは、

あまりにも危険ではないだろうか。

教育が本来向き合うべき問いは、例えばこういうものではないか。

・どうすれば人間が“意味を生み出す存在”であり続けられるか

・どうすれば人間が“暴力や財力”以外の尺度で協力関係をつくれるか

・どうすれば人間が“システムの部品”ではなく“尊厳性を発揮する存在”として文明を築けるか

しかし、今の政治と教育の設計思想からは、こうした問いがほとんど聞こえてこない。

サム・アルトマンの警告と、日本の政策のすれ違い

サム・アルトマンは、AGIや超知能の到来が「数年スケール」で起こりうると語った。

これは、「人間の労働価値を前提にした社会設計」が、もはや長期的には成立しない可能性を示唆している。

一方で、日本の国家戦略は、依然として

人間=労働力

教育=労働力の高度化装置

というフレームの中で組み立てられているように見える。

このズレは、単なる政策の遅れではない。

文明の前提OSのズレと言っていい。

演説では

「DX・AI化の進展といった産業構造転換に対応した人材育成が求められています。

産業界、地域の高校・高専・大学など、そして地方自治体が協働し、

産業イノベーション人材を育成する取組を進めます。」

と語られていた。

「対応する」という言葉は一見もっともらしい。

しかし、私にはここに大きな問題が潜んでいるように感じる。

今の私たちの時代は、多くの人が意思決定に関与できないまま、

一部のトップエリートや技術者たちによって文明の方向が決められつつある。

後追いするだけでは、

人間の価値の土台が崩れたときに、大きな混乱を生むだろう。

教育は、文明の呼吸である

教育とは本来、

経済のための人間をつくる装置

ではなく、

文明がどんな人間観の上に成り立つのかを、次の世代に手渡す営み

のはずだ。

もしこれから、人間が「労働力」としてはAIに勝てない時代に入るのだとしたら

なおさら、教育は「労働以外の価値」「存在そのものの尊厳」「意味を創る力」を中心に再設計されなければならない。

高市総理の所信表明演説は、政策としては非常に現実的で、戦略的でもある。

しかし、その根底に流れる人間観は、依然として「経済中心」「労働中心」のままだ。

そのまま進めば、私たちは

技術は次の文明へ

人間観と教育は前の文明のまま

という、きわめて不安定な世界に足を踏み入れることになる。

教育とは、国家の競争力のための装置ではなく、

私たちが「どんな文明を創っていくのか」を決める、もっと根源的な営みなのだと思う。

私たちは今、自分たちを測る尺度を「経済力」にしか見いだせていないのではないか。

未来文明を測る尺度は、それだけでいいのだろうか。

人間とは何か。

現実とは何か。

存在とは何か。

これからの時代を考えるうえで、

私たち自身の存在の本質を問い直し

文明の方向そのものを問い直す議論は

もはや避けて通れない。

その中でも、

・AIと共生・進化可能な人間観への大転換

・人間そのものを開発する教育の再設計

これは、もはや「理想論」ではなく、現実的な急務だと私は考えている。

「意味を創る人間」「尊厳性を軸にした文明」──

これは理念ではなく、政策として具体化できる問いだ。

その一つの試みとして、0=∞=1党の政策マニフェストを置いておく。

ここまでの長文を読んでくださり、ありがとうございました。

0=∞=1党 基本政策 | Noh Jesu(ノ・ジェス, 盧在洙)オフィシャルWEBサイトNoh Jesu(ノ・ジェス, 盧在洙)オフィシャルWEBサイト

<参考>
令和8年2月20日 第221回国会における高市内閣総理大臣施政方針演説 | 総理の演説・記者会見など | 首相官邸ホームページ

サム・アルトマン、AIインパクトサミットで数年以内に超知能が到来する可能性を予測