人が変われるという確信 本質の変化とは?

人が変われるという確信 本質の変化とは?

下手くそな自撮り。

「人は変われないと思う」

そんなテーマで書き始めた前回からの続き。

変化ができない原因とは何かについて書きました。

大きく3つ。

人間が変化ができない原因

・変化に対する定義が曖昧だったこと(共有可能な変化の定義がない)

・変化できない原因が何なのかが不明確であったこと(正確な問題意識を持てなかったこと)

・正確な問題意識がないため、本物の変化とは何なのかを定義することができなかったこと

今回はそこからちょっと踏み込んでみたいと考えています。

共有可能な変化の定義

では、共有可能な変化の定義とはなんでしょうか?

ちょっとだけ哲学的・本質的な話ですが、

私たちの世界を見たときに私たちは『変化』の世界に生きています。

人間にも生死があり、

宇宙にも無いところから誕生し、

太陽も地球も動き続けています。

私たちの体も生命もすべては動いて変化し続ける状態。

つまり、変化しないものはないのです。

このような世界のことをちょっと難しい言葉でいうと「相対世界」と定義することができます。

相対世界は、相対という言葉のとおり、対がある状態。

つまり最低でもペア以上の関係で成り立っていますので、

出会いの相互作用の中で変化が生まれます。

つまり、条件や状況が変わると変化してしまうという構造を持っているのです。

これが脳の機能と組み合わさったときどうなるのでしょうか?

人間の脳は過去の記憶とひもづけて意味や価値を固定する機能をもっています。

つまり、『自分』というイメージも過去の情報をもとに決めつけていきます。

あなたがあなたの名前で呼ばれたとき、そこに反応をするのは過去につけられた名前を自分を表現する情報としているわけですね。

さて、そんな中で人間は未熟な状態で誕生しますから

自己の未熟を持ちながら環境との関係性を構築していきます。

つまり、そのプロセスでは必ず、環境との疎通がうまくいかずに『自己否定』を蓄積していくようになっているのです。

この自己否定をもつ構造が人間を社会的な生き物にしていくために重要なのですが、

同時に過去の体験や経験の中で固定された自分や環境へのイメージから自由になれなくなるようになっているのです。

この固定された出発点を持っていることは

条件や状況が変化したときにその記憶情報と照合して今を認識するようになっています。

例えば、親御さんとの関係性の中で「わかってもらえなかった」という経験をもっている人は

今起こっている現象の中で「わかってもらえない」ポイントをキャッチし、

その記憶と照合して自己の確認を行います。

『やっぱり、自分のことはわかってもらえないんだ。』

大事な人との関係の中でついそんなキーワードを繰り返してしまう人もいるかもしれません。

つまり、わかってもらえているうちはよいのですが、わかってもらえないような雰囲気や表情などが起こった時に

分かってもらえないことをキャッチしてしまう構造をもっているのです。

ちなみに「わかってもらえた」経験を持っている人はいいのかというと、

その人のわかってもらえるイメージが邪魔して、そうじゃない環境があり得ないため感情的になりやすく、

そんなシチュエーションになったときにざわざわしたり、

そうならないように常に頑張り続ける構造が生まれたりします。

変化の世界から本質的に変化するためにはどうしたらいいの?

では、この変化の世界から根本的に変化するには「不変」の世界を定義することが必要です。

不変の世界とは「絶対世界」、

つまり対がない世界のことを指します。

この絶対世界のことをよくスピリチュアルでは『ワンネス』や『ノンデュアル』、仏教では『空』、倫理の万人幸福の栞では『万象の根源』と表現をします。

こういった話は一見するとスピリチュアルや宗教など、主観的な世界にも聞こえるので、

嫌いな方もいるかもしれませんが、実はこれ科学の世界とも通じる内容です。

この宇宙が誕生した瞬間は点から始まったといわれています。

点は面積0の位置情報を伝えるもの。

つまりそこは対がないところから始まるようになっているのです。

対がない世界から対のある世界がどのように生まれるのか?

この原理を解き明かすことは宇宙誕生の原理を説明することにもつながるのです。

(ちなみに空やワンネスの世界観は、有から無に行くための論理は説明ができるのですが、無から有が生まれる原理は説明が難しい限界があります)

さて、そんな科学の世界とも通じる話なのですが、

不変の世界があると定義したときに何が起こるかというと、

対がある相対世界との関係性に衝突が起こります。

不変の世界と変化の世界、どちらが<本物>なのかということ。

ちょっと考えてみましょう。

もし、不変の世界が変化の世界に変わってしまったとしたら、

不変ではありませんね。

なのでこの場合、『不変と変化、どちらが本物か?』という話になるのです。

このことは神は実在するのか?

なんていう一部デリケートな問題とも関わる話なのですが、

これは人間の可能性を担保・規定するためにも重要なことなのです。

不変の世界が本物であり、真実である。

そうなったとき、必然的に変化の世界は錯覚であり、偽物である。

そんな話になるのですが、

この関係性をあきらかにするとき

人間が生きる上で、『変化の世界』で蓄積した情報をゼロ化することが可能になるのです。

もし変化の世界が絶対であれば、

人間は過去にやってしまった事実や記憶から自由になれず、根本的に変化することができないという結論になってしまいます。

認識主体である自分と自分が認識している宇宙をゼロ化したときに、

脳が作り出した映像の外にでて、絶対世界そのものを認識しつづけることで、

本来の心の可能性をフルに発揮することが可能になります。

ちょっと難しいですが、

『今ここ、目で見ちゃだめ!』

ということ。

じゃあ、何を見るの?

どんな条件にも変化しない根源に胎動する原理を観続けることが、

どんな条件が来たとしても人間の尊厳が破壊されない本物の変化への鍵になります。

こんな感じ笑

まとめ

・人間は脳が認識した相対世界の中では過去の情報から自由になれず、条件づけによってもとに戻ってしまうため本質的な変化はできない

・絶対世界と相対世界の関係性を明確にし、それを道具にして生きることができたとき、人間は自分と自分の宇宙(映像)をゼロ化し、本物の変化を獲得することができる

本日もお読みいただきありがとうございました。

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